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「人を動かす 1936年版」蜂蜜がほしいなら、蜂の巣を蹴飛ばしてはならない 【デール・カーネギー】 パブリックドメインの洋書を全部現代語訳する

人を動かす 1936 年版の目次へ戻る

はちみつがほしいなら、蜂の巣を蹴飛ばしてはならない

1931 年 5 月 7 日、ニューヨークで最もセンセーショナルな事件の捜査がクライマックスを迎えていました。“二丁拳銃”ことフランシス・クロウリー ―殺人鬼・タバコも酒も飲まないガンマン―はウエストエンド通りの恋人のアパートに立てこもっていました。

150 人の警察官が最上階にある隠れ家を包囲しました。屋根に穴を開け、催涙ガスでクラウリーを追い出そうとしました。それから周囲の建物に機関銃を構え一時間以上もの間、ニューヨークの高級住宅街の一角に拳銃と機関銃の銃声が響き渡りました。クラウリーはソファの影に隠れながら、絶え間なく警察官に発砲していました。1 万人の人々が興奮の中、戦いを見守っていました。これまでニューヨークの街中では見たことがないような光景でした。

クラウリーが捕まったとき、E.P.ムルーニー警察長官は「この二丁拳銃のならず者は、ニューヨーク史上最も危険な犯罪者の一人である」と宣言しました。「彼はまた殺人を犯す」少し間を開け「息を吸うようにだ」と長官は言いました。

しかし、“二丁拳銃” クラウリーはどう思っていたのでしょうか?警察官が発砲している間に、彼は「関係者の皆様へ」と宛てた手紙を書いていました。その手紙には、彼の傷口から流れた血が真紅の痕跡を残していました。その手紙で「私のコートの下には荒みきった心があるが、また特別な心もある。この特別な心は誰も傷つけたりしない」とクラウリーは語っています。

クラウリーはこの事件の少し前に、ロングアイランドの道端で車を停め睦み合っていました。すると突然警察官が「免許証を見せろ」と言ってきました。クラウリーは何も言わず拳銃を抜き、鉛のシャワーを警察官に浴びせました。血まみれの警察官が倒れると、クラウリーは車から降り、警察官のリボルバーを掴んで、倒れていた遺体にもう一発発砲しました。そして殺人鬼は言いました。「私のコートの下には荒みきった心があるが、また特別な心もある。この特別な心は誰も傷つけたりしない」と。

クラウリーは電位椅子の刑に処されました。死の館-シンシン刑務所に到着したとき、彼はこう言いました。 「こいつが人々を殺した結果なのか」 否定するように「いや、これは自分を守った結果だ」と続けました。


この話の要点は「クラウリーは自分を責めていなかった」ことです。

犯罪者には珍しい態度だと思うでしょう。 「私は最高の人生を送った。人々に快楽を与え、楽しく過ごせるよう努めてきた。なのに私が得たのは虐待だ。狩られる男として扱われた」 アル・カポネの言葉です。そう、アメリカで最も悪名高い国民の敵、シカゴを襲ったギャングのリーダーです。カポネですら自分を責めませんでした。カポネも自分を誤解された慈善活動家だと思っていました。

禁酒法時代に密造酒で莫大な利益を上げ、暴力で問題解決を図ったギャング、ダッチ・シュルツもそうでした。ニューアーク市でギャングの銃弾に倒れる前にも「自分は慈善活動家だ」と新聞のインタビューに答えていました。彼はそう信じていたのです。

ニューヨークの悪名高いシンシン刑務所の所長を務めたルイス・ロウズと、この問題について興味深いやりとりをしたことがあります。彼はこう語っていました。

シンシン刑務所のほとんどの犯罪者は、自分たちを悪人だと思っていません。彼らはあなたや私と同じように人間なのです。彼らはなぜ金庫を破らなければならなかったのか、あるいは引き金を引いてしまったのかを説明することができます。彼らのほとんどは、誤った論理を用いた推論で反社会的行為を正当化しようとします。自分自身にさえも当てはめますその結果、有罪になるべきではなかったと頑なに主張しています。

アル・カポネ、クロウリー、ダッチ・シュルツ、そして刑務所の壁の向こうにいる絶望的な人々が、何も自分たちを責めないとしたら、あなたや私が接触する人々はどうでしょうか?

デパート王ジョン・ワナメーカー-ワナメーカーの名を冠したデパートの創設者-はかつて告白しました。

私は 30 年前に、叱ることは愚かなことだと学びました。私は自分の限界を克服するのに十分な問題を抱えていますが、神が「知性というギフトを平等に分配することが適切である」とは見なしていない、という事実に悩まされることはありません。


ワナメーカーは早くからこの教訓を学んでいましたが、私は 35 年もの間、「99%の人は、どんなに自分が間違っていたとしても、自分を非難することはない」ということに気づかなかったのです。実に 1/3 世紀もの間、色あせた世界を彷徨っていたのです。

非難は人を防御的な立場に追い込み、自分を正当化しようする場合が多く、無駄なものです。非難は危険なもので、人の大切なプライドを傷つけ、感性を傷つけ、恨みを募らせるのです。

世界的に有名な心理学者であるバラス・スキナーは、悪い行動で罰せられた動物よりも良い行動で報酬を得た動物のほうが、はるかに迅速に学習し、はるかに効率的に学習内容を保持することを実験で証明しました。その後の研究では、同じことが人間にも当てはまることが示されています。非難することでは、私たちに永続的な変化は起こらず、しばしば恨みを抱きます。

もう一人の偉大な心理学者ハンス・セリエは「私達は承認欲求と同じくらい、非難を恐れる」と述べています。

非難が引き起こす憤りは、従業員、家族、友人の士気を落とすだけで、非難された状況の改善はできません。

オクラホマ州イーニッド市のジョージ・B・ジョンストンは、ある機械の設計・開発会社の安全管理者です。彼の仕事の一つは、従業員が現場に出ているときは常に安全帽を着用しているか確認することです。彼の報告によると、安全帽を被っていない労働者を見つけるたびに、規制の権威を持って遵守しなければならないことを伝えていました。その結果、従業員に不機嫌そうに受け入れられ、ジョンストンが去った後で安全帽を脱いでしまうこともしばしばあったそうです。

そこで彼は別の方法を試してみることにしました。何人かの従業員が安全帽を被っていないのを見つけたとき、彼は安全帽に違和感があるのか、それともサイズがあってないのか尋ねました。そして気さくな口調で、安全帽は怪我から身を守るために作られたものであることを伝え、作業中は必ず被るように提案したのです。その結果、恨みや反感が少なく、規則が遵守されるようになりました。


いかに非難が無駄なことなのか、分厚い歴史書からも読み取れます。例えばセオドア・ルーズベルトとタフト大統領の間の有名な口論があります。共和党を分裂させ、民主党のウッドロウ・ウィルソンを当選させ、第一次世界大戦の大胆な計画を立てた、歴史の流れを変えた口論です。 事実を手短におさらいしましょう。1908 年にセオドア・ルーズベルトが大統領から退くと、大統領に選ばれたタフトを支持しました。その後、セオドア・ルーズベルトはアフリカにライオン狩りをするため旅行に出かけました。帰ってくるなり、爆発しました。自ら 3 期目の大統領になろうと、タフトの保守主義を糾弾して共和党の指名を得ました。タフトは共和党を分裂させブル・ムース党を結成し、共和党は壊滅的な状態になりました。これまでに知られる中で、最も悲惨な共和党の敗北でした。

セオドア・ルーズベルトはタフトを非難しましたが、タフトは自分を非難したのでしょうか?もちろん違います。タフトは目に涙を浮かべながら「あの方法しかありませんでした。今もそう思っています」と言いました。

誰のせいなのか?ルーズベルトかタフトか?正直言って、私にはわからないし、気にもしません。私が言いたいのは、セオドア・ルーズベルトの非難はすべて、タフトに間違っていると納得させる説得ではなかったということです。単にタフトに自分を正当化するようにさせ、目に涙を浮かべて言い直させただけなのです。「あの方法しかありませんでした。今もそう思っています」と。


また、ティーポット・ドーム事件を考えてみましょう。1920 年代初頭、新聞は「国民を震撼させた!」と憤りの論調を見せていました。当時の人々の記憶の中でアメリカの政治史上で起きたことがなかったことが起こったのです。スキャンダルの真相は次の通りです。

ハーディング大統領政権の内務長官だったアルバート・B・フォールは、海軍保有のエルク・ヒルズ油田とティーポット・ドーム油田で原油埋蔵量の管理を任されており、将来海軍で使用する石油を確保する役目がありました。フォール長官は民間へ油田を貸与しましたが、競争入札にしたのでしょうか?驚くべきことに違いました。エドワード・ドヘニーに太っ腹な契約書を渡したのです。ドヘニーは何をしたのでしょうか?フォール長官に 10 万ドル(訳注:2020 年の価値では約 150 万ドル)の融資を受けました。そしてフォール長官は高圧的な態度をとり、エルク・ヒルズ油田に隣接する油田の競合他社を追い払うために、海軍を投入するように命じました。銃と銃剣により追い払われた競合他社は法廷に登り、ティーポット・ドームのスキャンダルを暴きました。この汚職は国民全体の不信を買い、ハーディング大統領政権と共和党を破滅させる恐れがあったため、アルバート・B・フォールを刑務所に送りました。

多くの政治家と同様に、フォールは激しく非難されました。非難されたことで彼は悔い改めたのでしょうか?もちろん一度もありません!数年後、ハーバート・フーヴァーは演説で「ハーディング大統領の死は、友人に裏切られたことによる心労と精神的不調によるものだ」と述べました。それを聞いたフォール夫人は椅子から飛び起き、泣きながら運命を嘆き、叫びました。 「ハーディングがフォールに裏切られたの?違うわ!夫は誰も裏切ってないわ。この金があふれる家があっても、夫は悪事に誘惑されません。裏切りで嬲られ、十字架にはりつけられたのです」


これらはあなたにも当てはまるものです。悪事を働いた者は自分以外の人を責める、これが人間の本性です。だからもし誰かを非難したく鳴ったら、アル・カポネ、クロウリー、アルバート・フォールを思い出してみましょう。非難はいつも非難した者に帰ってくる、鳩のようなものだと認識しましょう。私達が非難し、正そうとしている人たちは、おそらく自分自身を正当化し、私達を非難することを理解しましょう。そして「あの方法しかありませんでした。今もそう思っています」と言うでしょう。


1865 年 4 月 15 日の朝、エイブラハム・リンカーンはフォード劇場の真向かいにある安宿の寝室で死にかけていました。ジョン・ウィルクス・ブースに撃たれたのです。リンカーンの長身には短すぎるベッドに、斜めに横たわらせていました。ベッドの上にはローザ・ボヌールの有名な絵画「ホース・フェア」の安物のレプリカが飾られており、ガス灯の黄色い光が揺らめいていました。

リンカーンが死にかけているとき、スタントン国務長官は「世界で見たことがないほど完璧な統治者が横たわっている」と言いました。

リンカーンが人を扱うことに成功した秘訣は何だったのでしょうか?私はエイブラハム・リンカーンの生涯を 10 年間研究し、3 年間のすべてを『知られざるリンカーン』という本の執筆と推敲に費やしました。リンカーンの人格と生活について、可能な限り詳細かつ徹底的に研究したと思っています。特に、リンカーンの人との接し方について研究しました。彼は思うままに非難したでしょうか?しています。インディアナ州のピジョン・クリーク渓谷に住んでいた青年の頃、彼は非難するだけでなく、人々を嘲笑する手紙や詩を書いては見つけられそうな道端に落としていました。そのうちの一通は、生涯消えることのない深い恨みを買うことになりました。

リンカーンがイリノイ州スプリングフィールドで弁護士になった後も、新聞に投書して公然と非難しました。彼はやりすぎてしまったのです。

1842 年の秋、リンカーンはジェームズ・シールズという名の見栄っ張りな政治家を嘲笑いました。リンカーンはスプリングフィールド・ジャーナルに匿名で投書し、皮肉に非難しました。町は嘲笑に包まれ、繊細でプライドの高いシールズは憤りました。投書した人物を突き止めたシールズは、馬に乗ってリンカーンを追いかけ、決闘を挑みました。リンカーンは決闘を拒みましたが、名誉を守ることができなくなるので拒みきれませんでした。リンカーンには武器の選択権が与えられました。リンカーンはとても腕が長かったので、騎兵用のブロードソードを選び、陸軍士官学校の卒業生から剣術のレッスンを受けました。そして約束の日、リンカーンとシールズはミシシッピ川の河川敷で出会い、死を覚悟した戦いを始めました。立会人が決闘を中止させました。

それはリンカーンの私生活の中で最も陰惨な事件でした。人との付き合い方について、この事件が計り知れない教訓をリンカーン与えました。彼は二度と侮辱的な手紙を書かなくなり、誰かを嘲笑することもなくなりました。どんなことでも、誰も非難しなくなりました。

リンカーンは南北戦争中、何回もポトマック軍の将軍を任命することになりましたが、マククレラン、ポープ、バーンサイド、フッカー、ミードの順に大失敗を繰り返し、リンカーンを絶望の淵においやりました。半数以上の国民は無能な将軍たちを猛烈に非難しましたが、リンカーンは「誰に対しても悪意を持たず、すべての人に慈しみを」と平静を保ちました。「他人を裁くな、自分が裁かれないために」はリンカーンの座右の銘の一つです。

リンカーン夫人や他の人々が南部の人々を厳しく非難したとき、リンカーンは「彼らを非難しないでください。彼らは私達と同じような状況にあります。」と諭しました。

リンカーンも批判することはあったが、それもやはりリンカーンらしいものでした。一つだけ例を挙げてみます。

ゲティスバーグの戦いは 1863 年 7 月 1 日から 3 日間行われました。7 月 4 日の夜、雷鳴轟く嵐のなか、リー将軍は南下し始めました。敗北したリー将軍の軍隊がポトマック川に到着したが増水して通行不能、 背後には勝利した北軍が迫ってきていました。リー将軍は罠にはまり、逃げることができませんでした。それを見たリンカーンは、天の思し召しだと思いました。リー将軍を捕らえれば戦争を直ちに終らせる、絶好の機会だったのです。リンカーンは打ち寄せる高揚感のなか、軍事会議をとおさずに、ミード将軍にリー将軍に攻撃を命じました。その直ちに行動を要求する命令をミード将軍へ電報で送るとともに特別な連絡員を送りました。

そしてミード将軍は何をしたのでしょうか?言われたこととは正反対の行動を取りました。リンカーンの命令とは真っ向から反し、軍事会議を開催しました。ミード将軍はためらい、先延ばしにし、あらゆる言い訳を電報しました。リー将軍への直接攻撃を断固胸痺したのです。ついに水が引いて、リー将軍は軍を率いて、ポトマック川を越えて逃げおおせました。

「これはどういう意味だ!?」とリンカーンは激怒しました。息子のロバートに泣きつきました。 「偉大なる神よ、これは何を意味するのでしょうか?我々はすでに奴らを手中に収めていました。あと少し、手を伸ばすだけで達成できました。しかし、私が何を言っても軍を動かすことはできませんでした。動かせていたら、ほぼリー将軍を打ち倒せたでしょう。もし私がそこにいたら、私の手で鞭打つこともできたでしょう」

失望の中で座り込み、ミード将軍へ手紙を書きました。この時期のリンカーンは非常に保守的で過激な表現を使わなかったことを覚えておいてください。1863 年に送られたこの手紙は最も厳しい非難に値するものでした。

親愛なる将軍 リーの逃亡が、どれほどの損失かご理解いただけたとは思えません。彼は簡単に手中に収められるところにいて、捕らえることができたならば、後々あげる戦果とあわせて戦争を終らせることができたでしょう。しかし現状では、無期限に戦争が長期化するおそれがあります。もし先週の月曜日の安全に攻撃できないのだとしたら、2/3 の兵力しか持ち込めない川の南で、どうすることができるというのでしょうか?それはおよそ理不尽なことであり、今更大きな戦果は期待できません。あなたは絶好の機会を逃しました。だから私は計り知れないほど心を痛めています。

ミード将軍が手紙を読んだときどうしたか、考えてみてくだい。

実は、ミード将軍はその手紙を読んでいません。リンカーンは郵送しなかったのです。リンカーンの遺品として書類から見つかりました。

リンカーンは手紙を書いたあと、窓の外でも見ながら、こう独り言をつぶやいたのではないかと予想します。あくまで予想ですが。 「ちょっと待て。ひょっとして急ぐべきではないのでは?静かなホワイトハウスからミード将軍に攻撃を命じるのは簡単だが、もし私も先週のミード将軍と同じように戦場のゲティスバーグで大量の血を見ていたら、そして負傷者や死にゆく者たちの悲鳴や叫び声を聞いていたならば、私も攻撃する気にならなかったかもしれない。私もミード将軍と同じ臆病な気質だったとしたら、同じことをしたかもしれない。いずれにしても、これでは水の泡だ。この手紙を送れば私の気は晴れるだろうが、ミード将軍は自分を正当化しようとする。そして私を責めることになる。人を恨みだし、指揮官としての素質が損なわれて活躍できなくなり、辞任に追い込まれるかもしれない」

そう、すでに言ったように、リンカーンは手紙を出さずに脇に置きました。非難はほぼ全て無駄に終わることを、厳しい経験から学んでいたからです。

セオドア・ルーズベルトは大統領として当惑する問題に直面したとき後ろに寄りかかり、ホワイトハウスの机の上にかけてあるリンカーンの大きな絵を見上げ、自分辞任に問いかけていたと語っています。 「もしリンカーンがここにいたなら?彼はどうやってこの問題を解決したのだろう?」

もし次に誰かに警告したくなったときは、リンカーンの写真に向かって質問してみましょう。「リンカーンならどうやってこの問題を解決したのだろう?」


トム・ソーヤーの冒険の作者マーク・トウェインは時々かんしゃくを起こし、汚い言葉で手紙を書きました。たとえば、トウェインの怒りを買った男性に「お前のためになるものは、死亡証明書だ。君は言ってくれるだけでいいよ、僕が見届けてあげるから」と書きました。その他にも編集者に手紙を書き、内容は構成者が「ぼくのスペルと句読点を改善したこと」でした。手紙で命じたことは「今後はぼくの原稿を元に仕事を進めろ。そしてその提案は、くさってドロドロの脳みそから出てきたものだってことを校正者に覚えさせておけ」

刺し殺すような手紙を書いたことで、マーク・トウェインは気分が良くなりました。周りの人たちはマーク・トウェインにうっぷんを晴らせるようにしましたが、誰にも危害は及びませんでした。実は、マークの妻が密かにしまいこんだのです。手紙が送られることはありませんでした。


誰か改善したほうがいい、規制、変更したほうが良いと思う人はいますか?いいですね!それは良いことだと思います。私はそれを支持しますが、まずは自分から改善してみませんか?自分の立場から見たら、他人を改善しようとするより、自分のためになります。

子曰く「自宅の前が汚れているなら、隣家の屋根に積もった雪に文句を言うべきではない」。(訳注:明代の張風翼の言葉らしい。論語では自宅だけ雪下ろしするのではなく、隣家の屋根も気にかけるべき言っている)


私がまだ若く、人々に印象を与えようと必死に努力していたときのことです。アメリカ文学の新境地を拓いていた作家であるリチャード・ハーディングス・デイビスに馬鹿らしい手紙を書きました。私は作家をテーマにした雑誌記事を準備していて、デイビスに仕事方法を取材しました。数週間前にもらった手紙の下の方に、こんな注記がされていました。「口述を代筆しましたが、目を通していません」とても驚きました。作家は偉大な人物なので、とてもとても忙しいのだと思いました。大して忙しいわけではなかったのですが、リチャード・ハーディングス・デイビスに印象付けたかったので、短い手紙に「口述を代筆しましたが、目を通していません」と付け加えました。

その手紙でデイビスが困ることはなかったのです。返信の手紙に「こんな無礼は見たことない」とシンプルに添えられていました。もっともな話で、私は大失敗をしました。また、私は非難される人物だと思いました。しかし、私も人間ですので、非難されたことで憤慨しました。それから 10 年後にリチャード・ハーディングス・デイビスが亡くなったと知ったとき、またこの非難のことで憤慨しました。彼が私に与えた、「恥ずかしくて認められない」という気持ちが私の心にまだ残っていたのです。

もしあなたと私の間に、何十年も不快な思いをさせ、墓場まで持っていく恨みを残したいなら、少しきつい非難をしてみましょう。それがどんなに正しいと確信していてもかまいません。


人々に応対するとき、人間は論理的な生物ではないことを思い出してください。私達は感情的で、偏見に凝り固まり、プライドと虚栄心を動機付けされた生物と応対しているのです。

苦々しい非難は、繊細でイギリス文学で最も優れた小説家の一人、トーマス・ハーディに筆を折らせませた。また、非難はイギリスの詩人トーマス・チャタートンも自殺に追いやりました。

ベンジャミン・フランクリンは若い頃は無知でしたが、外交的になってゆき、対人スキルが伸びていき、フランスのアメリカ大使になりました。成功の秘訣はなんだったのでしょうか?「誰の悪口も言いません」と言い、「そして良いことは知っている限りすべて話します」と続けたそうです。

愚か者でも批判し、非難し、不満を言うことはできます。そいて、ほとんどの愚か者は、言ってしまいます。

しかし、寛容で理解者となるためには、品性と自己統制が必要になります。


「偉大な人は、弱者へのふるまい方で偉大さを示す」とカーライルは言いました。

有名なテストパイロットであり、航空ショーで活躍するボブ・フーバーは、サンディエゴの航空ショーからロサンゼルスの自宅に帰りました。

雑誌「Flight Operations」で紹介されているように、上空 90 メートルで、両方のエンジンが突然停止しました。巧妙な操作で彼はなんとか飛行機を着陸させました。怪我人はいませんでしたが、機体はひどく損傷してしまいました。

緊急着陸後すぐに、フーバーは飛行機の燃料を検査しました。飛ばしていた第二次世界大戦のプロペラ機は、ガソリンより危険なジェット燃料を燃料としていました。

空港に戻ると、自分の飛行機を整備していた整備士に会いたいと頼みました。その青年は自分の失敗にひどく心を痛めていました。フーバーが近づくと、青年の頬に涙がこぼれ落ちました。非常に高価な航空機を失い、さらに 3 人の命を奪ったかもしれなかったからです。

フーバーがどれほど怒ったか、想像できるでしょう。舌打ちし、誇り高く的確なパイロットであれば、どれだけ不注意だったか浴びせるように指摘できたでしょう。しかし、フーバーはそのメカニックを叱ったり、批判したりしませんでした。代わりに青年の肩に太い腕を乗せ「これから二度としないだろ?明日から俺の F-51 の整備をしてくれ」と言いました。ほとんどの場合、親は子どもを批判したくなります。あなたは「やめろ」と言ったことでしょう。しかし私は「やめろ」とは言わず、単にこう言います。「非難する前に、アメリカの古典的な短文の『Father Forgets』を読もう」。もともとはピープルズホームジャーナルに社説として掲載されました。著者の許可を得て、ここに転載しています。(訳注:パブリックドメインのためそのまま転載しています。このサイトでは特別に許可を得ていません。詩的な文章なので、訳していません)

「Father Forgets」は心に響く短文で、切ない気持ちを呼び起こさせられました。永久保存版のお気に入りとなりました。初掲載以来、「Father Forgets」は何度も再掲載されており、作者のウィリアム・リビングストン氏はこのように語っています。

数百の雑誌、社内誌、さらには全国の新聞に掲載されています。多くの外国語にも翻訳され、出版されています。私は学校、教会、授業など、読みたいと思った何千人もの人々に許可しました。数え切れないほどラジオでも流れました。不思議なことに、高校や大学の学校新聞でも使用されています。時々、小さな作品が不思議なことに心に「カチッとはまる」ことがあるようです。この作品がそうでした。

FATHER FORGETS W. Livingston Larned

Listen, son: I am saying this as you lie asleep, one little paw crumpled under your cheek and the blond curls stickily wet on your damp forehead. I have stolen into your room alone. Just a few minutes ago, as I sat reading my paper in the library, a stifling wave of remorse swept over me. Guiltily I came to your bedside.

These are the things I was thinking, son: I had been cross to you. I scolded you as you were dressing for school because you gave your face merely a dab with a towel. I took you to task for not cleaning your shoes. I called out angrily when you threw some of your things on the floor.

At breakfast I found fault, too. You spilled things. You gulped down your food. You put your elbows on the table. You spread butter too thick on your bread. And as you started off to play and I made for my train, you turned and waved a hand and called, “Goodbye, Daddy!” and I frowned, and said in reply, “Hold your shoulders back!”

Then it began all over again in the late afternoon. As I came up the road I spied you, down on your knees, playing marbles. There were holes in your stockings. I humiliated you before your boyfriends by marching you ahead of me to the house. Stockings were expensive―and if you had to buy them you would be more careful! Imagine that, son, from a father!

Do you remember, later, when I was reading in the library, how you came in timidly, with a sort of hurt look in your eyes? When I glanced up over my paper, impatient at the interruption, you hesitated at the door. “What is it you want?” I snapped.

You said nothing, but ran across in one tempestuous plunge, and threw your arms around my neck and kissed me, and your small arms tightened with an affection that God had set blooming in your heart and which even neglect could not wither. And then you were gone, pattering up the stairs.

Well, son, it was shortly afterwards that my paper slipped from my hands and a terrible sickening fear came over me. What has habit been doing to me? The habit of finding fault, of reprimanding―this was my reward to you for being a boy. It was not that I did not love you; it was that I expected too much of youth. I was measuring you by the yardstick of my own years.

And there was so much that was good and fine and true in your character. The little heart of you was as big as the dawn itself over the wide hills. This was shown by your spontaneous impulse to rush in and kiss me good night. Nothing else matters tonight, son. I have come to your bed-side in the darkness, and I have knelt there, ashamed!

It is a feeble atonement; I know you would not understand these things if I told them to you during your waking hours. But tomorrow I will be a real daddy! I will chum with you, and suffer when you suffer, and laugh when you laugh. I will bite my tongue when impatient words come. I will keep saying as if it were a ritual: “He is nothing but a boy - a little boy!”

I am afraid I have visualized you as a man. Yet as I see you now, son, crumpled and weary in your cot, I see that you are still a baby. Yesterday you were in your mother’s arms, your head on her shoulder. I have asked too much, too much.”

Instead of condemning people, let’s try to understand them. Let’s try to figure out why they do what they do. That’s a lot more profitable and intriguing than criticism; and it breeds sympathy, tolerance and kindness. “To know all is to forgive all.”

As Dr. Johnson said: “God Himself, sir, does not propose to judge man until the end of his days.”

Why should you and I?

原則 1: 批判や非難したり、不満は言わない


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